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遺品里帰り展―八田與一が遺したもの(上)

偉人館では今週末(10月6日)まで、八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会さんとの共催展示「八田技師遺品里帰り展」を開催中です。
開催初日(9月21日)からは3日間にわたり、八田與一が主役の映画『パッテンライ!!~南の島の水物語~』の上映会を開催しました。

当館では常設展示で顕彰している土木の偉人・八田與一(1886-1942)。
最近では当館で扱っている偉人の中でも、泉鏡花や西田幾多郎らと並んで全国区になってきました。
與一の著名な業績とは、台湾南部の嘉南平原における巨大農業用水施設・嘉南大圳(かなんたいしゅう)の建設です。

與一が台湾総督府に赴任したのは、明治43年(1910)。
日清戦争の勝利によって台湾を植民地にしてから15年の歳月が経ち、現地での抵抗運動も収まりつつあり、次のステップとして国土開発が進められようという時期でした。

当時の台湾では、マラリアなど伝染病が蔓延り、日本本土からは「化外の地」と呼ばれて忌避されていました。
嘉南平原もその広大な面積とは裏腹に、「不毛の大地」と呼ばれていました。
雨季は各地で洪水が発生し、乾期は雨がほとんど降らず、また海からの塩害…という、とにかく耕作に不向きな土地だったのです。
その大きさもあって、かつて台湾を統治していたオランダ東インド会社、鄭成功、清朝、いずれの支配層も嘉南平原を灌漑することは叶いませんでした。

当時米不足が問題視されていた本土からの要請で、台湾での米作りを推奨する政策が取られます。
この時、嘉南平原の灌漑が再び計画され、その責任者となったのが八田與一でした。

元々、與一は米の増産を目指して嘉南平原の灌漑計画を立案していましたが、費用が膨大なため中々ことが進まない中、本土で起きた米騒動が結果的に追い風となったのです。

與一は嘉南平原の北部を流れる濁水渓と南部を流れる曽文渓を繋ぎ、そこから嘉南平原全体に毛細血管のように用水を張り巡らせ、土地全体に水をいきわたらせるという壮大な計画を立てます。
また、曽文渓支流・官田渓に当時東洋最大のダム「烏山頭ダム」をつくり、曽文渓側の取水口としました。

烏山頭ダムの堰堤(総延長 約1300m)

工事は1920年から始まり、爆発事故や関東大震災による予算のストップなど様々な苦難に遭いながらも、10年の歳月をかけて竣工。
嘉南大圳の完成により、嘉南平原の耕作面積はみるみる拡大し、現在では台湾一の穀倉地帯となっています。

この完成を喜んだ工事関係者は、與一の銅像をつくることを立案。
当の與一は固辞したのですが、結局つくることに。
そこで與一がお願いしたのは「仰々しいのはやめて、普段の自分の姿で」ということでした。

その結果つくられたのが、下記のような銅像でした。

八田與一像と孫の八田修一氏

作業着にゲートル姿で「うーん」と頭を悩ましながら工事現場を眺めていた與一。
作業員たちが普段みていた與一の姿を見事に再現したユニークな銅像です。
作者は都賀田勇馬(1891-1981)。石川県を代表する彫刻家で、金石の銭屋五兵衛像や小松の安宅関像などを手がけました。

その後も與一は一技師であり続け、台北に測量学校をつくるなど、現地での行進育成に尽力しました。
昭和17年(1942)にフィリピンでの灌漑計画に向かう旅路、アメリカの潜水艦の攻撃を受け、殉職しています。

銅像も金属不足のために供出されていましたが、戦後まもなく現存していることが発覚。
その後台湾にやってきた国民党軍の方針で、台湾各地にあった日本人像は取り壊されていきます。
そして、與一の像は現地の人々が倉庫に隠し通し、現在は再び與一と妻外代樹の墓の前で、ダムを眺めるように佇んでいます。

今回の遺品里帰り展では、與一が殉職した際に身に着けていたシャープペンシルや、勅任官に選ばれた際に授与した瑞宝章などを展示しています。
また日本の敗戦後、與一の後を追うように烏山頭ダムに身を投げた妻・外代樹の遺品も一緒に展示中です。
これらの遺品は、現在台湾の農業部農田水利署嘉南管理處が所蔵しているものをお借りしています。なので「里帰り展」。

與一は日本では忘れられていた存在だったのを、当時の総統・李登輝(1923-2020)が、台湾のために尽くした日本人として紹介したことも有名です。
與一が台湾の人々から慕われている理由―それは台湾の近代化に尽くし、嘉南大圳という大工事をやり遂げて嘉南平原の発展に寄与した業績もあると思います。
ただ、そうした事績だけではなく、與一の人となりもその一つであったと考えられます。

與一はダムで働く人々が少しでも安心して働けるようにと、建設現場近くに宿舎を建設しますが、そこには学校・病院・商業施設・娯楽施設も建てられ、もはや町といえる規模の居住区が誕生しました。
また、当時は明確に格差があった日本人と台湾人とを分け隔てなく接し、誰にでも厳しく、誰にでも優しく接して居ました。

当時台湾で禁止されていた賭け事なども、「烏山頭には娯楽が少ないから」と與一は黙認していました。
ただし、揉め事に発展したら「直ちにクビ」という条件を付けており、つい喧嘩が起きそうになると與一が現場に直行しました。
そうすると周囲は「パッテンライ!!(八田が来た)」と叫んで場が静まったといいます。

工事現場では爆発事故で多くの犠牲者が出ました。
與一はその度に遺族のもとを訪れ、涙を流して謝罪し、台湾人の場合は台湾式の葬儀で弔ったといいます。
嘉南大圳の工事期間中に亡くなった人々の名前を彫った殉工碑には、日本人と台湾人の名前が分け隔てなく載せられています。

竣工直前に建てられた殉工碑
工事期間中の亡くなった人々(作業員・家族)の名が刻まれている

こうした與一の誰にでも平等な人柄が、その業績とともに台湾の人々から今も敬愛されている一つの理由なのかもしれません。

1980年代に、烏山頭ダムで毎年開催されているという墓前祭を見に行こうと、とある日本人が金沢から台湾に降り立ちました。
そこで現地の人々が何十年もの間、まるで親戚の人のお墓参りをしているかのような雰囲気で、毎年八田與一の法要を欠かさず行っていたのを目の当たりにして深い感銘を受けました。
以来金沢の人々に声をかけ、毎年墓前祭に参加して台湾の人々と交流を深めていきました。
その人物の名は中川外司といい、その活動は彼の没後も継承され、現在は「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」として今も台湾の人々と友好を深めています。

現在では総統や金沢市長なども参加して中継まで行う国家事業のような一大行事となった墓前祭ですが、当初は地元の人々と金沢の有志の人々が集まって手を合わせて交流を深める場だったのです。

八田與一が遺したものは、嘉南大圳だけでなく、人々をつなぐ友好の心でもあった―といえるかもしれません。

ということで、八田與一について簡単に紹介しました。
(下)では、現在に生きる與一の遺産を紹介いたします!