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館蔵品展【前期】の見どころ紹介②ー横地石太郎編ー

偉人館がこれまで集めてきた偉人に関する資料をピックアップして公開している
館蔵品展「いじんコレクション大公開!」
その前期―明治・大正編―について引き続き見どころをお伝えしていきます。

『坊つちゃん』の被害者⁉ 横地石太郎の遺品たち

「横地石太郎先生寿像」

こちらの胸像の人物は横地石太郎(1860~1944)。
夏目漱石ファンの間でも今や知る人ぞ知る人物かと思います。
教師として長年教育の場に携わった石太郎ですが、実はある作品がきっかけで全国的に名が知られることになります。
それも本人にとって不本意な形で…。

その作品とは、夏目漱石の小説『坊つちゃん』(1906)。

愛媛県松山の中学校を舞台に、東京から赴任してきた主人公「坊っちゃん」が、中学校のやんちゃ坊主たちとひと悶着を起こしたり、数学教師の「山嵐」とともに悪徳教頭「赤シャツ」を懲らしめる―
という大衆小説です。
松山市では坊ちゃん団子やら、坊ちゃん列車やらとにかく『坊つちゃん』を観光資源としてフル活用しているという一方、内容は滅茶苦茶松山をバカに(ついでに見下される延岡)しまくるという漱石の地方蔑視の真骨頂―もとい、漱石の地方をみる姿勢が読み取れる作品です。

その『坊つちゃん』と横地石太郎にいったい何の関係が…?というと、
悪役「赤シャツ」のモデルは横地じゃないか―そんな言説が読者の間で広まったのです。

実は、『坊つちゃん』は漱石が教師時代に実際に松山の中学校に赴任した際の体験談をもとに描かれています。
そのため、読者たちは「じゃあキャラたちにもモデルがいるはず!」と考え、漱石が在任時の教頭だった横地=「赤シャツ」という噂が立ったわけです。

また、横地は漱石在任中に校長に就任しているため、「赤シャツ」ではなく校長の「狸」ではないかとの説も出ました。
「狸」なんて綽名の通り、こちらも良い役ではありません。

教頭、校長と偉い立場にいたばかりに、悪役のモデルとされた横地。
では実際に漱石とは険悪な仲だったのか…というと、むしろ漱石が愛媛を去ってからも手紙のやり取りを続けるほどには仲良しでした。

ええ~…

実際横地のみならず漱石本人も横地モデル説を散々否定しています。
ということで、作者も本人も否定しているのに勝手にモデルと解釈されてしまった横地さん。
そして本人がどういった人物かを知らないという方も多いと思うので、ここで紹介していきたいと思います。

はしごを外された青年期

横地石太郎は加賀藩の下級武士の長男として現在の金沢市宝町に生まれました。
少年時代から成績優秀で前田利嗣(十五代当主)の学友として選抜されます。
そして15歳で利嗣らとともに上京し、東京の前田家邸宅内におかれた学問所に通いました。

ところが、なんとその学問所が一年で廃止されてしまいます。
そして藩からは
「お金あげるから、あとは好きにして良いよ」
と梯子を外されてしまいます

がびーん

ということで、このまま東京に残るか金沢に帰るかという選択肢を迫られる中、先輩たちからの助言をもとに在京を決断。独学で東京英学校(のち東大)へ進学しています。
その時のノートがこちら。

非常に丁寧な実験のスケッチが描かれています。
そして別のページをめくると、今度は漢文がびっしりと書き込まれていました。
貴重なノートをフル活用していたのかもしれません。
当時の学生さんたちが如何に本気で学問に取り組んでいたかが伝わってきます(私なんて授業ほとんど寝……)。

大学を卒業後は教職の道を選び、理学士・横地石太郎の教師人生がスタートしました。

松山で漱石と出会う

いくつかの学校を巡った後、愛媛県立尋常中学校に赴任して教頭職及び校長職を務めました。
この時、東京から新任教師として赴任してきたのが夏目漱石でした。
中学校にいる教師陣の中で、大学出身だったのは横地と漱石だけ。
高等師範学校出身だった当時の校長よりも高給取りでした。
学部は違えど、同じ東京大学の先輩後輩という間柄だったふたりはプライベートでもよくつるんだといいます。
横地の家に招待されたとき、娘たちを我が子のように可愛がってあげ、横地不在の時も遊びに行き娘たちの相手をしていたなど、ほっこりするエピソードも。
結局、漱石は松山の風土が肌に合わずにすぐ熊本の第五高等学校(現 熊本大学)に転任します。その後も横地と漱石は手紙のやり取りを続けており、漱石全集にも横地からの手紙が収録されています。

ちなみに、愛媛県立尋常中学校時代の横地のあだ名は「天神さん」(口ひげと顎ひけが由来)、漱石は「鬼瓦」でした。

多分野で活躍

その後、山口高等学校(のち山口高等商業学校、現山口大学) に転任し、やがて校長となり学校の発展に寄与しました。
胸像は、山口高商の人々によってつくられたものです。

また、専門は物理化学ですが、歴史学や考古学、天文学、地学など幅広い分野で業績を残した知識人でもあります。

愛媛の考古学を発展させ、山口では毛利元就の菩提寺に残る文献を調査して文化財保護に努めるなど、赴任先で様々な功績を残しました。
横地の遺品の中には、調査の中で拾った石なども残されています。
熊本に転任した漱石を訪ねた際、漱石から太宰府出土の瓦をもらい、お礼に室町時代後期の般若心経を送ったエピソードも。

ということで、漱石ファンたちからは「赤シャツ」や「狸」のモデルではないかと勝手に噂されていた横地でしたが、実際は長年教育の現場に勤め、赴任先の歴史・考古の発展に寄与した人物だったのでした。

『坊つちゃん』への書き込み

漱石ファンの間で有名なのが、横地による『坊つちゃん』書入れ本です。
横地が退官後、当時の関係者(被害者)たちが集まって、『鶉籠』に収録された『坊つちやん』に、当時の思い出や事実関係を書き入れました。

モデルになった人たちの書込みということで、漱石没後にとある漱石の弟子がその本を借用しにきました。
横地も「赤シャツ」モデル説の払拭のためか、その本を弟子に預けることにします。
戦後、ご遺族が返還を求めているうちに本は行方知れずに…(ひどい)。

その後、何十年も経てご遺族の手もとに戻った書き入れ本は横地の菩提寺に寄附されました。
そのため原本をみることは現在難しいですが、『四国女子大学研究紀要』(※)に書入れ本の翻刻が載せられており、その全容を知る事が出来ます。

ということで、今回は横地石太郎資料について紹介しました。
次回はまた別の「いじんコレクション」を紹介してまいります。

(※)
新垣宏一「横地・弘中書き入れ本「坊っちやん」について 」『四国女子大学研究紀要』2(1)(31)、1982年